2017年1月23日月曜日

援助は施しか ②

(続き)

1.  情報
 大抵、日本の国際協力NGOなんかは、こういう悲惨な暮らしがあるということをこれでもかってくらいアピールする。もう日本では考えられないような悲惨な状況の中に暮らしていると。でも僕の場合、それが全てじゃないとわかってきた。彼らは、彼らなりに楽しく笑って暮らしている。ただ、日本と比べて過酷な環境なので、自分たちの貧困という価値を売りにして図太く生きてる部分もある。
 例えば、孤児なんかはいい例だと思う。日本でアフリカの孤児たちが苦しんでますって聞くと、これはもう大変な悲惨な暮らしがあると瞬時にインプットされ、正義感の強い人なんかはなんとかしなきゃ!的な思考になるはず。しかし、当の彼らや周辺の大人たちは、僕らのような先進国の人々がそういう思考回路に陥ることを知っている。そして、もちろんそれを利用しようとする。これは別に悪いことじゃないと思うし、彼らの“貧困”の価値を見出し、「孤児」とわかり易くカテゴライズし、ドナー市場に広報するっていうのは、この開発援助の世界の本質な気がする。でもその結果、その援助欲しさに「商業的孤児」が多く出てきてしまった。最初は本当に貧困状態で支援を受けていた孤児院が、支援継続のために孤児たちへ支援金をちゃんと還元していないのは、ケニアではよく聞く話。こっちで「孤児」はMoney Machinesとか言われたりする。だって、彼らの状況が良くなれば、悲惨な状況を訴えられず、先進国の僕らはお金を出すのをやめちゃうからだ。
 つまり、日本にいると現場の切り取った情報(悲惨な状況)しか入ってこないから、支援するという判断が容易になってしまう気がする。良くも悪くも。逆に、現場に近い僕だと、状況がわかってて、本当にそうなのか?とか、まず疑ってかからないといけないから、パッと支援する気にはならないのかも。
 
2.  不平等
 もし、僕がその場で何か支援したら明らかに不平等だ。だって、その人と同じような、あるいは、貧しい暮らしをしている人は、きっと近くにごまんといる。でも、日本で募金する時にそんなことを一度も考えたことはない。きっと、困ってる人が助かるんだろうなっていう感情の面が大きく働いているからだろう。
 もし、こっちのケニアで、感情面で動いたら、散財もいいところだ。例えば、僕はプロポーザルの内容柄、孤児の家に訪問することが多い。多くの場合が、僕に支援が欲しいと必死にアピールしてくる。もちろん、大変困った状況にあるのだが、いつも冷静に断っている。「君ならこの状況を変えられるお金があるだろう!」と言われがちだが、お隣さんを見れば同じ状況だったりするし、明らかに不平等になるって、すぱっと言ってしまう。かなり冷静に。この僕の冷静な面と、日本の悲惨な状況を助けられる!という感情面とのバランスが、実際に支援するかしないのかという違いを生むのかなと思う。

3.責任
 実際に支援するとなったら、その人の生活は良くも悪くも激変する。これは開発の持つ、紛れもない一面だ。だから、彼らの生活を間近に見ていると、支援するかしないかの判断には、十分に注意を払わなければならない。一つの支援が、コミュニティ内の人間関係の崩壊を招くなど、開発の負の面が出てきてしまうかもしれないからだ。だからケニアにいると、支援に慎重になってしまうのだろうなと思うのと同時に、そういった責任が日本で募金している人たちは持っているのだろうかとも思う。


(連載コラム 終わり)

2 件のコメント:

  1. はじめまして
    いつも楽しく読ませてもらっています!
    いっぱい吸収していっぱい悩んで、それをたくさん聞かせてほしいです
    今回のテーマのシリーズ続編も期待しています。
    どうかお体には気を付けて!

    オグリ(03~04年,ナンバレ)

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